2017年8月17日 (木)

海軍機が陸軍の隼に撃墜された 徴兵された父の話

         
私の父は徴兵された。父から聞いたホロムシル島での話


昭和17年私の父は徴兵された。
行き先は。ホロムシル島だった、しかし本当の目的地はアリューシャン列島だった。

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ホロムシル島【幌筵島(ぱらむしるとう、ほろむしろとう)は、千島列島の北東部にある島。波羅茂知島(ぱらもしるとう)と表記されることもある。ロシア名はパラムシル島 】

となりの島では8月18日にソ連の武力攻撃により戦闘が行われた占守島(シムシュ島)、日本軍は武装解除をしていたが軍装を整えソ連軍との戦闘が行われた島である。

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ところがアリューシャン列島のアッツ島が米軍によって占領されることによって。
北千島ホロムシル島に赴いたままだった。父の所属は陸軍工兵隊 要塞建築隊であった。

父は、徴兵されることにより人生観が変わったとよく言っていた。
神も仏もない・・・よく言っていた。

兵隊の頃の話を、私に伝えてくれた。理不尽な話が多かった。
この事についても多くの話があるが後日としたい

明治生まれの父が、年齢的には兵隊の限界を過ぎている人間が突然赤紙で徴兵されたのだから。
人生観が変わるのも当然のことであると感じている。

いずれ父のことは記録として書かなければならないと思いつつ今日まで来ている。その一部を敗戦の月の8月だから伝えようと思った。それも昨日のNHKの放送が引き金となっている。

昨日インパール作戦のことがNHKで報道された。インパール作戦では親戚が戦死している。
文献では職業軍人であるその人は学徒出陣の軍人に自分は職業軍人だが君は生きて帰れと言う意味ことを述べたと言う話だ。
昨日のNHKの特集で無意味なインパール作戦の事が伝えられた。人づてにひどいことは理解していたが・・・・。

そこで父から聞いた、戦争が如何に理不尽、無意味であるかの話を伝えたい。

そこは北千島ホロムシル島での事

空襲警報がなった、多くの兵士が壕から見上げる中、一機の大型の飛行機が上空を飛行していた。
迎撃の陸軍隼が飛び上がっていった。

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大型機は隼に向かって、翼を振った何回も。
しかし隼は無抵抗の大型機を攻撃し、大型機はついに撃墜された。
兵士達は手をたたいて喜んだ。
腑に落ちないことがあった。どうして大型機は反撃しなかったのか。と、

その疑問は間もなく解消された。
何と撃墜されたのは海軍の大型機だったという話が伝わってきたのだった。

無念だったろうに海軍の飛行機に搭乗していた人達。
さらに今思うにこの事は正確に遺族に伝わっているのだろうか。
いつも思う私の疑問だ。
      
         
           

      

                    
 

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2015年10月 6日 (火)

恵庭事件の野崎さんの講演

レジエンド野崎健在・・・・恵庭事件の当事者の講演を聴きました

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自衛隊と果敢に闘った恵庭事件の当事者野崎さんは当年80歳です。しかし年齢を感じさせない講演でした。

当時をこう振り返り語ってくれた

 昭和30~32年  米軍はジェット機の騒音被害謝罪・補償を行った

しかし  
 昭和33年以降  自衛隊ジェット機、大砲の近代化、大型化に騒音が拡大
 
 さらに戦車の演習による演習場の荒廃により当牧場が発電用及び飲料
用の水利権を持つ湧水に濁水が混入、大雨のたびに生活用水が使えず、同
時に停電がおこる。

騒音による被害データの提出をするも 被害の増大 
      
 防衛施設局から移転の要請も立ち消え 昭和30年には母が精神的ス
トレスで胃潰瘍になって倒れ、父も33年春精神的にダメージを受け札幌
に疎開。

そのため私は33年大学卒業後直ちに、引き継ぎなしに牧場を受け継ぐ
、町は基地交付金をもらっているため、基地公害に強い抗議交渉が出来ず
住民運動をするにも基地の町ではみな腰が引けていて難しい。 

自衛隊のジェット機は私と弟が標的を取り壊すことにより、やっとコースを変更

標的も移動。

大砲について33年頃より、騒音が大きくなる。そのため演習場に行き、
演習中の砲列の前に立ち演習を止めることもたびたび。

道路以外のところを走っている戦車を見かけたときは、前に立ちふさがって追い返した。
 勿論、危険な行為であり、心臓が止まるかと患われるほど怖かったが、
 一家の生活がかかっていたからこそ、命懸けの抵抗をしたのである。

結局、札幌にある北部方面隊総監部に行き第4部長に抗議し、牧場近く
の特定地域では大砲の潰習は行わないこと、雲の低く立ち込めるときは特
に大砲の決菅は取りやめること。また牧場の水利権を侵害する汚水の原因
となる恐れがある地域では道路以外の戦車の通行をしないことも約束さ
せた。しかしこの約束は幾度となく破られた。

 (簸音や泥水の心配のない、平和な牧漸こ戻したいと思いながら)
 事件当日の話

さて事件当日の話をする前に、どうしても乳牛検定の話をしなくてはな
らない。乳牛検定は高品質の乳牛を選別し,種畜牡牛を登録して乳牛の改
良を進めるのが目的である。乳牛の長命性を求めるた桝こ必要な体型審査、
そして乳量・乳質検査の結果、三代続けて成績の良いものはその記録と共
に高等登録牛の資格を得る。そのため対象となる牛の一頭一頭の乳量と乳
質の正確な検査が必要となる。不正を防ぐために,検定員は一カ月に一度、
事前連絡なしに牧場にやってくる。そして朝と夜の乳量と乳質を立会検査
し、それを30倍し、一カ月に換算したものをホルスタイン協会に報告す
る。一日の乳量で一カ月の乳量を推計するので、検定日の乳量が少なくな
ることは、その日の損失ばかりでない。当該牛のみならずその子牛の価格
にも、大きく影響するのである。私の牧譲も当時すでにブリーダーとして、
高い評価を受ける牛群を所有していたので、その影響はとくに大きかった
のである。

 事件の当日、昭和37年12月11日早朝検定員がやってきた。

こともあろうに、検定員の立ち会う搾乳の最中、突然近くで砲音が鳴り響いた。
緊急事態である。弟が大砲の射撃現場に交渉に行き、約束が違う。今日
は検定日だからどうしてもやめるように」と申し入れた。

しかし自衛隊が
聞き入れなかったので、やむを得ず緊急避難を図り、

強い抗議を示すため
に、発射地点と着弾地点を結ぶ連絡用通信線を切断した(先方に与えた被
害額せいぜい数百円)。

これが

翌日、写真とともに新蘭に実力行使の写真とともに記事が載った。
 実力行使後、自衛隊がどう対応してくるか、反応を待ち続けた。
 数日後、北部方面隊総監の声明とともに自衛隊が告訴したのを知った。
新聞に載った総監の声明は、加害者の意織が全くない、驚くべきものだっ
た。

このようにして恵庭事件は始まった

続く

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2015年7月23日 (木)

幌筵島(ぱらむしるとう、ほろむしろとう)で陸軍機が海軍機を撃墜

父が語った悲しい話、墜落させられたのは海軍機だった!

 私の父は戦時中カムチャッカ半島の付け根にあたる島、千島列島最北端幌筵島に駐屯していた陸軍工兵隊(要塞建築隊)の兵士でした。

ある日空襲警報が鳴り避難していた上空に1機の大型の飛行機が飛来してきた。

この飛行機が幌筵島を爆撃しようとしていると捉えたのか陸軍の戦闘機が離陸し上空で大型機の前に立ちはだかった。

大型機はその時反撃の機銃も撃たず、主翼を上下に振る動作をしながら飛行を続けた。

何回も何回も主翼を振って飛行を続けた。

しかし、陸軍の戦闘機は容赦なく戦闘機から機銃を撃ち続けた。

ついに、大型機は陸軍の戦闘機に撃墜させられた。

避難していた兵士達は「やった!やった!」と大いに喜んだそうだ。

しかし程なくして撃墜された飛行機は海軍の飛行機だったと言うことが伝わってきた。

「かわいそうなことをしたものだ」「なぜ翼を振る動作を見て友軍機と判断できなかったのだろう」

とよくこの話をしていました。父は3年前101歳で亡くなりましたがこの話は戦時中はたぶん公式には記録されていたのかどうか、撃墜された海軍のパイロットや乗務員のご遺族には知らされていたのか、たぶん真実は知らされていなかったと思います。

きな臭くなってきた世相を見るにつけ、父が気にかけていた真実を語ることも私のつとめと考えここに発表する次第です。

父 は昭和18年から20年まで幌筵島にいました。

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2015年6月30日 (火)

久田栄正著 戦争と私

ルソン島における生と死

久田栄著 戦争と私

あとがき さいごに

の全文です。京都大学法学博士 久田栄正さんと3人でお会いした時直接先生からいただいた本です。平和の尊さを語り扉に 反戦平和 の文字を書いて下さいました。
今の時代にもぴったりの後書きです。

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 さいごに

 本手記は、私の戦争体験を語り伝えるということよりも、過去の戦争体験の愚を再び繰さないように少しでも役たてばと思って書いた。
 さいきんしきりに大臣達が、中学生の修学旅行のようにぞろぞろと靖国神社に参拝しているが、果して、そんな大臣達の行為で、戦争で死んでいった兵隊達はうかばれるだろうか。
軍隊は、戦争が最高潮のときは、軍隊全体が高く評価され、将校から二兵卒まで称讃され、その武勇をたたえられて、将軍は、貴族と勲章の数をふやし、兵士は「生命を鴻毛の軽き」においたというので、戦友から「思えば、今日の戦闘に朱にそまって、にっこりと笑って死んだ戦友が天皇陛下万才と残した声が忘られようか」(露営の歌)と歌われ、母親からは、「空をつくような大鳥居こんな立派なおやしろに神とまつられもったいなさよ母は泣けますうれしさにとびがたかの子うんだよでいまじゃ果報が身にあまる金璃勲章がみせたいばかりあいに来たぞや九段坂」(九段の母)と歌われ、息子も人間として生きて行く誇りを棄てて兵士として、死んで行くことを名誉として選んだ。そのため自ら生み育てた我が子の死を身にあまる果報と受けとる無情な母をつくりあげた。
 私達がルソン島に上陸した時は、戦争末期であり、米軍がルソンに上陸したときは、日本軍隊は、既に軍隊として体をなさず、戦力として用をなさなかった。作戦指導者の一人富永航空司令官は、ルソン島に部下を置去りにして逃げ出し、沈没から救助された兵隊は竹槍をもって歩哨にたち、また沈没で部隊本部を失った兵士は、はだしで海岸に放心したよう座っている。指揮官のない兵士、兵器を持たない兵士は身体を弾丸として切込んで行く。一戦ごとに退却を重ねていった。戦力としての機能をうしなった軍隊に国家はなお戦争の続行を命じていた。
 上官達は、自己の地位を利用して、部下をおき去りにしても、何とか生き延びようとしていた(私の大隊長)。戦うべき兵士は、戦意を喪って戦線を離脱し遊兵化していった。敵前逃亡の罪、敵前坑命罪も、兵士達の生きようとする前には何ら権威をもたなかった。こうして戦力でなくなった兵士に戦争を強いる国家から兵士達は離れていった。
 他方傷病兵達は、戦力としては役立たない荷厄介として、国家からどんどん見棄てられ、初めて戦わなくてよい人間として、生きる為の苦闘を始めねばならなかった。
 私の如く戦う任務のない主計や獣医は、敵上陸と同時にあらゆる物資の補給は途絶し、軍馬は、砲爆撃で皆無となり、無用の長物となって荷厄介視されて、部隊にくっついて死の恐怖におののきながら戦う兵士と同じ運命を背負って移動、退却をつづけた。
 私は戦場で幾百幾千の兵士達の死の姿を見た。忠勇無双の軍人としての死ではなく、国家から見はなされ、一人で生きて行こうとして力尺、きて死んでいった。もちろん勇敢な兵士もいた。しかしそれは例外に近かった。大部分の兵士は、国家から見放され、あるいは国家を見放していった兵達であって、彼らは、死に直面して、自分は国家のため、天皇のため死んで行くのだという意識などなかった。私は一度だけ、心にもないことを言ったことがある。それは手記にも書いたように無謀な大隊長の命令に対してのひらきなおりの言葉としてである。
 実際私が戦場で、見聞した限りでは「天皇陛下万才」とか「大日本帝国万才」などいって死んだ兵士は一人もいなかった。直撃弾にあたれば、それをいういとまもなく飛散してしまう。負傷して死んだ兵士は一晩中坤き通して死んでいった。病気や栄養失調で死んでいった兵士は、必ずといっていいぐらい「もうダメです」と人間として死んで行くことを誰れかに伝えて死んでいった。それに、マラリヤの高熱で発狂した兵隊だけが、人間としての本心をいった。彼らは敵機が飛来すると「停戦だ〃‥」=停戦だ〃‥」と戦場をかけ回るのだった。既に、この手記でも「高柳一等兵の死」の所で書いたように、彼は死を前にして、兵士としてではなく人間として「寿司が食べたい」=自分はもうだめです。停戦協定に間に合いません」と述べている。どれだけ、戦争が終って故国に帰って平和な生活を送りたかったか。
 大臣や戦没者の遺族会の人達は、戦場で死んでいったこれらの兵士連の気持ちをほんとにわかっているのだろうか。
 国家は、兵隊達を死に追い込んでおいて、死んだら「英霊だ」「英霊だ」とさわざたてて、国家の為めに殉じた英霊を国家で合杷するのは何が悪いかとひらきなおっている。
そのために大臣や遺族会を組織している人達は、憲法を侵してまで靖国神社国営法をつくろうとし、その下ごしらえとして、大臣だちがぞろぞろと大挙して靖国神社に参拝しているのである。
 しかし、兵隊達は、どんなに戦う兵士であることを忌みきらっていたか、兵士が人間であればあるはどそうであった。早く戦争が終って、故国に帰って平和に生活をおくりたいと念願していた。それが叶えられず無念にも死んでいったのである。その彼らを、いまだに戦った兵士として国家に殉じたとして合祀することは明らかに彼らの意に反する。いま彼らをほんとに慰めるのなら、一人の人間として死んでいったことを認めてやることであり、それが何よりの供養である。
 戦没者をいつまでも国家にしぼりつけ、それを何らかの政治目的に利用しようとすることは、死者に対する冒涼であり、まったく許せない。政府はいつまでも戦没者を国家にしぱりつけておかずに、尊い一人の人間の死として、その霊を家庭に速にかえしなさい。
 いまの憲法では、国を守れないから改正せよとか、国民は、国防に協力すべきだとか、愛国心が足りないとか、国民に説教する、まことに不遜な大臣がいる。この大臣達はほんとに自分のいまいっていることの意味がわかっているのだろうか。
 大臣は、国民が平和に生きて行けるように、どうしたら戦争をなくすことができるか、を考えていればよいので、戦争になったら国民はどうすべきかなど、国民を再び戦争の道具にするような戦争屋の代弁者的発言はやめてほしい。
 戦争は政府の外交の失敗なのであって、政府の失敗を、国民の国防協力心や、愛国心によびかけて国民に尻ぬぐいをさせようとする大臣は卑怯でありただちに退くべきである。                     (この「さいごに」は一九八一年九月記す)

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2011年7月25日 (月)

第24回反核平和の火リレー 

第24回反核平和の火リレー 声援に行きました

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反核平和の火リレー が岩見沢を通過しました

若い皆さんが2度と核による被害を起こさないと

訴える、リレーで市民に訴えていました

その後集会がもたれました

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2008年8月 3日 (日)

「満州から帰還した1少年の話」

「満州から帰還した1少年の話」満州開拓団から秋田へ

講師 高橋 栄五郎 さん

1933年(昭和 8年)10月25日秋田県生まれ
1941年(昭和16年)小学校1年生で満州に渡る
1946年(昭和21年)小学校6年生で帰国
1994年(平成 6年)道職員を退職

昭和21年秋田県の駅国民学校6年の少年は列車から降りた
不安な気持ちとやっとたどり着いた安心感の入り交じる複雑な思いで改札口から降り立ち、自分の生まれた地区への道を探した。いくら探しても道は分からなかったその時「栄五郎か?」との声が突然耳に入った。
足かけ2年満州の開拓団からの逃避行に一つの決着がついた瞬間だった。

偶然と言えば全く偶然の出来事であったであった。

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河合清秀のミニ学習会(2008年8月1日)で「満州から帰還した1少年の話」を満州の開拓団から1人で帰ってきた体験談を話していただきました。

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